原告団声明

「君が代」不起立戒告処分取消共同訴訟原告一同

2020年2月11日

(1)はじめに

私たちは、全国で唯一大阪だけにある「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」(以下、「君が代」強制条例)のもと、「君が代」起立斉唱の職務命令に従わなかったため戒告処分を受けました。しかし、「君が代」強制条例ならびに3回の不起立で免職と定めた「大阪府職員基本条例」は憲法に違反し、大阪の公教育を根底から変質させるとの危機感のもと、2015年7月9日、処分取消裁判を起こしました。一審、二審を経て1名の処分は取り消されましたが、他の6名の処分は取り消されませんでした。私たちは、上告を棄却した最高裁に抗議するとともに、今後も多くの方々と共に、なぜ「君が代」により処分されるのか!――この問題に取り組んでいくつもりです。

(2)裁判の背景――維新流教育「改革」・「君が代」強制条例

2008年2月橋下徹氏が知事となり、大阪に維新流教育「改革」の嵐が吹き起こりました。政治による一方的な「改革」がどれほど学校と市民の暮らしに打撃を与えたか、一言で言えば、それは民主主義の基本である対話を奪うものでした。「君が代」強制条例、「教育基本条例」により、子ども・教職員・保護者・市民の信頼関係は崩され、政治による学校の管理統制は極めて強くなりました。学校選択制、学校統廃合、全国学力テストの学校別平均点の公開、公立高校の学区撤廃等、維新の教育施策の本質は、格差を前提とした競争による子どもたちの分断です。また、森友問題や教科書採択不正疑惑問題は、明らかに政治が教育に介入した結果起こった問題です。

侵略戦争のシンボルとして使われた「日の丸」・「君が代」について、先輩教員から受け継いだ“教え子を再び戦場に送るな”の誓いのもと、多くの教職員は卒業式や入学式での実施に反対して来ました。「君が代」は、天皇を讃える歌です。明らかに主権在民の精神に反します。しかし、2011年6月、いわば数の力で「君が代」強制条例が制定施行され、その翌年から大阪の公立学校全教職員に「君が代」起立斉唱の「職務命令」が出されるようになると、教職員はそれぞれ、立つ・立たないという選択を個々にせざるを得なくなりました。私たちは、たとえ職務命令であろうと、「君が代」起立斉唱することはできませんでした。それは私たちにとって教員としての「良心」でした。

(3)「君が代」裁判

先行する「君が代」裁判では、「思想・良心の自由」を巡って最高裁判決は奇妙な論理を展開しました。本来、憲法19条で保障されているところの「思想・良心の自由」は絶対的保障の権利です。特に対国家権力では無制限の絶対的保障と言われています。ところが、最高裁は、その「思想・良心の自由」について直接的制約と間接的制約とに二分化しました。つまり、起立斉唱の職務命令は、「個人の思想・良心の自由を直ちに制約するとは認められない」が、「間接的な制約」ではある。直接的制約であれば、当然憲法違反となりますが、「間接的制約は、職務命令の目的等と比較し、必要性と合理性が認められるならば許容できる」とし、結果「君が代」起立斉唱職務命令は許容されると結論づけました。これは明らかに詭弁です。一方、東京都で続いていた、いわゆる「累積加重処分」に最高裁は待ったをかけました。

 2011年最判における宮川光治裁判官反対意見は今なお意義があります。教育の場で「公権力によって特別の意見のみを教授することを強制されることがあってはならない」こと等を理由に、「教員における精神の自由は、とりわけ尊重されなければならない」とし、起立を求める職務命令は「憲法19条に違反する可能性がある」と指摘しています。

(4)大阪「君が代」強制条例・職員基本条例

私たちが、地裁、高裁、そして最高裁への上告で、とりわけ求めたのは大阪の「君が代」強制条例ならびに職員基本条例の違憲性の判断でした。

「君が代」強制条例は、明確にその目的を「愛国心の高揚」と規定しています。条例にはこうあります。―「…教職員による国歌の斉唱について定めることにより、府民、とりわけ次代を担う子どもが伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する意識の高揚に資する…」と。

そして、職員基本条例で、「3度の不起立」で免職を規定しています。

「…(職務命令に違反する行為の内容が同じ場合にあっては、三回)となる職員に対する標準的な法第二十八条第一項に規定する処分は、免職とする。」と。

卒業式や入学式で、3度「君が代」不起立であればクビにするという、これらの条例は憲法に即して考えれば明らかに違反します。ところが、ついに最高裁は一度も法廷を開くことなく、なんの審議もせず私たちの上告を棄却しました。

(5)教員としての「良心」

私たちは、子ども一人ひとりが自分の考えや自己を持ってほしいと願ってきました。卒業式や入学式は教育の一環であり、私たちにとって公教育における公的な職務遂行の場です。だからこそ私たちは、「君が代」起立斉唱はできませんでした。学校儀式という同調圧力の強くかかる場での「君が代」斉唱は、生徒に特定の行動をとるよう「すり込む」可能性があります。しかもその行動は、少数かもしれませんが、人権侵害であり苦痛だと感じる生徒が間違いなくいます。それに加担することは到底できませんでした。

裁判では、子どもの教育を受ける権利や子どもの思想・良心の自由を保障するための「教師としての思想・良心の自由」を主張しましたが、裁判所からは一顧だにされませんでした。専門職としての「教師の思想・良心の自由」は保障されるべきものではないのでしょうか。それがなければ、教員は不当な支配から子どもたちを守ることは到底できません。

(6)教育の場での信教の自由のために

また、「君が代」は大日本帝国憲法下の天皇制と強く結びついています。国家が神道と結びつき、他の宗教の信仰の自由を侵してきた過去の反省により日本国憲法20条が作られました。象徴天皇制になっても、宗教性は抜けていません。天皇代替わりの行事は神道式で行われました。「君が代」の「君」が天皇を指すことは国会答弁で明らかです。原告奥野はクリスチャンですが、自身の信教の自由のためだけでなく、教育公務員として、国家による特定の宗教の圧しつけが少数者の内心を傷つけ不当であり、処分は人権侵害であると訴えてきました。しかし、最高裁は、信教の自由への「直接的な制約」にあたるという訴えに応えていません。

(7)井前勝訴の意義

控訴審において大阪高裁は、原告井前に対する戒告処分を取り消しました。大阪府は上訴せずこの判断は確定するところとなりました。

高裁判決は、O校長が「府教委が定めた入学式及び卒業式における国歌斉唱に係る指導に従うことなく、前年度までとは異なって、教職員に対し、本件通達の写しを配布することをせず、府教委の指導内容に沿った職務命令の発令に係る発言はもとより、そもそも『職務命令』の文言すら使用しなかった」とし、「校長が職務命令を発したとは認められない」「戒告処分は裁量権を逸脱し違法である」と判断しました。一審の内藤裁判長は、「自己の教育上の信念等を優先させて、あえて式典の秩序に反する特異な行動に及んだ」と裁判官個人の偏見に基づいた判断により、いかなる形であれ「不起立」そのものが「有罪」なのだと断じ、「君が代」不起立処分問題は歴史的に決着済みなのだと言わんばかりでした。高裁判決は、少なくともこれほど露骨に政権側にすり寄ったずさんな判断をそのまま認めることはできなかったわけです。

「大阪維新の会」(当時・橋下徹代表)は、2011年6月、「君が代」強制条例・職員基本条例を強行し、違反した教職員は処分し3回で免職だと宣言しました。2012年1月の校長・准校長および各教職員に宛てた「起立・斉唱」を徹底させる教育長通達は、「大阪維新」の政治圧力によるものです。そして、同年3月、橋下知事の同級生だという府立和泉高校長の中原徹氏が、卒業式で教員が歌っているかどうか口の動きを教頭にチェックさせます。橋下知事は、直後の4月には中原校長を教育長に就任させます。中原教育長(当時)は、強制をますますエスカレートさせ、「君が代」を歌っているかどうかの全府立学校での『口元チェック』を命じる教委長通知(2013年9月4日付)を発出します。いわば橋下との二人三脚暴走です。

当然ながら、通知に対する広範な批判の声があがりました。一方で、中原教育長は現場への介入をさらにエスカレートさせ、実教出版「日本史A」教科書を採択した高校に対して直接の圧力をかけます。教育長の政治介入に対する批判が府議会でも大きな問題となりました。中原教育長は徐々に運動と世論に追い詰められ、2014年4月3日の府立学校校長会で、ついに「口元チェック」を撤回し、卒業式・入学式の対応は「校長裁量で」といわざるを得なくなりました。O校長は、維新勢力による一連の教育介入に抗って、「校長裁量」で「職務命令」の発出を放棄し自分なりの抵抗を試みたわけです。その後、「橋下人気」を背景に暴走した中原教育長が「戦慄すべきパワハラ加害者(第三者委員会)」として辞職に追い込まれたことは周知の通りであります。

いかに状況が厳しくても、それに抗おうとする意識と行動が学校の内部から繰り返し湧き上がってくる可能性があります。たった一つの職場の一人の管理職、一人の教職員、一人の保護者、一人の生徒等、どんなに少数でどんなに小さな抵抗からでも、大きなうねりにつながる可能性があります。井前処分取消の判決は、問題を「過去のもの」のように政治的に扱い、具体的な事実に目もくれようとしない、この間の一連の判決に釘を刺したといえます。少なくとも、全国で初めて、「不起立」による戒告処分を取消させたことは、「君が代」強制に抗おうとする全国の教職員にエールを送る役割を果たしました。「不起立」による抵抗も処分撤回の闘いも、まだまだ終わりはないのだと。

(8)憲法判断を避ける最高裁

一部勝訴したとはいえ、最高裁はことごとく私たちの主張を斥け、何より憲法に則った違憲判断を依然として行いませんでした。条例による教職員への「君が代」強制がどんな問題を惹き起こすか検証もせず、2011年の一連の最高裁判決のコピペをそのまま私たちの裁判の判決とした裁判所はすでに司法としての責任を放棄したと言えます。私たちは、今、行政のみならずこの国の司法にも幻滅しています。

(9)いま、大阪の教育は?

「君が代」強制条例施行から9年が経ちます。理不尽であり、かつ教職員を恫喝する条例に支配された現在の大阪の学校では、政治主導から来る教育行政の上意下達の施策のもと、すでに教職員から声を上げるのは極めて困難な状況にあります。

格差を前提とし、学校・教員・子どもに競争を強いる維新の施策は、子どもたちを自己責任論で絡め取り分断するものです。チャレンジテスト制度はその最たるものと言えます。

不当な教育行政による教育施策の矛盾・行き詰まりは、国レベルでも、またほかの地域にもありますが、ここ大阪では「大阪維新の会」という極めて特異な政治勢力の影響により、その異常さはとりわけ突出しています。

私たちは、今後も声をあげ続けていきます。公教育の場で「君が代」強制は行ってはならないと。そして、“維新政治”により大阪の子どもたちがこれ以上苦しむことがないようあらゆる場面で問題にしていきます。ご支援ありがとうございました。今後もともに連帯を!

              井 前 弘 幸     梅 原   聡

              志 水 博 子     奥 野 泰 孝

              増 田 俊 道     松 村 宜 彦 

              山 口   広